2015/11/4 水曜日

スクリャービンの作品

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 23:41:46

ある意味、音楽の中に、エロだの神秘主義を持ち込んだというか、何と言うかそういう側面が「ある」ことは否定しないし、否定してしまっては、彼の作品ではなくなってしまうだろう。が、それを強調しすぎても、スクリャービンの世界から離れてしまうと思うのだ。

作品の背景はともかくとして、作曲技法は(和声が特異といえないこともないが)非常に理知的というか、几帳面というか、機能的というか、実にクラシカルなものがある。比較的若い頃の作品は、むしろ大胆に、感覚の赴くまま書いたのか?という気がしないでもないものもあるけれど、中期以降、後期作品は特に、非常にしっかりとした構成の作品だ。感覚的だの超自然的だのという雰囲気も絶対に必要なのだが、それだけでは悪趣味だろう。勿論、四角四面、構築的に、無機質に演奏してもつまらない(いや、そのアプローチを極限まで追い詰めてみるのは、試みとしては面白そうだが…)。

私には彼の宗教的背景は理解できていない、し、おそらく、理解できないようにも思う。しかし、彼の宗教的な立場というか、思想的な信条には、敬意は持っていたい。(自分が信奉する教理以外に敵意を持ったり見下したりすることは、人間としてどうかと思う)敬意を持てばなんとかなるというものでもないかもしれないが、見下したり、逆に表面的に教理をなぞるだけよりは、まだましだろう。

ともかく、一見矛盾しそうないろいろな要素が混然としていることは、彼の作品解釈を難しくしているというか、面白くしていというか。どこに落としどころを探すかは、解釈する側の度量と才覚と趣味次第、結局のところ自分が何者なのかを問われることになるのだ。スクリャービン(も)恐るべし。

2015/11/3 火曜日

スクリャービンのソナタ

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 23:50:51

作品番号つきのソナタは10曲。

このうち1〜5番が一応、古典的調性の作品で、6番以降がスクリャービン流の和声システムが表にでた1楽章制の作品(5番も1楽章構成だが)。

形式的には、楽章数が1〜2と、典型的なソナタから外れたものが過半(4番が2楽章構成(序奏+ソナタとみることもできる)、2番も2楽章構成、5〜10番が単一楽章(5番は序奏+本体と見ることもできないでもない)、結局、1番と3番が4楽章構成をとるだけだ)。とはいえ、必ず1楽章以上は、典型的なソナタ形式の楽章を備え、形式的には非常にかっちりとしたソナタといってよいと思う。和声システムは大幅に拡張されているものの、構成は古典的なのだ。

曲の雰囲気は10者10様という感じ。聞きようによっては6番以降はみんな一緒じゃない?ということにもなるけれど(しかし後期の5曲もそれぞれ特徴的ではある)。前半の5曲は本当にみな様々。古典的・ロマン的な1番、印象派風の2番、ロマン的な3番、ある意味もっともスクリャービン風かもしれない4番、同じくスクリャービン風だけれど随分和声が古典的フレームワークを逸脱して、響きがことなってきこえる5番・・・

どの作品も、恐ろしく難しい・・・ような気がする。もっと超絶技巧を要する曲は多々あれど、スクリャービンの作品を五月蝿くなく響かせるように演奏するとなると、恐ろしく難しいと思う。かなり対位法的な多層の作りになっているし、和声も豊饒を極め、下手なペダリングをすれば音の固まりになってしまったり、旋律が埋もれてしまったり。客観的にみて、それじゃ駄目じゃないの的な混乱した響きになりがちだ。

さて、前置きに終始してしまったが、とりあえず今日はここまで。

2014/7/28 月曜日

ショパンの幻想即興曲のペダリング

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 22:17:47

原典番系統の楽譜を改めて確認してみたのだけれど、ペダリングの指示が恐ろしく少ない。途中の長調に変わったところの導入部分と最初のフレーズのところだけ。ペダル記号満載の楽譜を昔見ていた目には新鮮に映るが、非常に理解できる指示でもある。

では、他の部分はペダル禁止かといえば、それは、誤った原典主義だと思う。しかし、少なくとも現代のコンサートグランドピアノを前提とした場合、恐らく、全編をフルペダル全開で押し通すことは、おそらく有り得ないだろう。様々なペダリングのテクニックを駆使しないと、完全に、響きの中に曲が埋もれてしまうことは必定だ。頻繁な踏み替え、思い切って使わない、ハーフペダル、あたりを適宜組み合わせて使うべきだろう。

当時の楽器だったら、もしかしたら、フルペダルをある程度踏み替え有りでやることで、十分に切れ味の良い演奏になる可能性は高いものの、現代ピアノでは、それでは響きが厚すぎる。

残響の作る響き

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 22:10:52

糸を引くような美しい残響も確かに素晴らしいのだが、響きの性格を基本的に決めるのは、ごく初期の残響〜アーリーリフレクションあたりまでのように思う。直接音だけでも、インパルスレスポンス味にするだけで、無響室とは異なるキャラクタが立つことがわかる。

解像度を落とさないためには、長い残響は好ましくないという考え方もありそうだけれど、その場合は、リバーブ部分を浅くすることで、空間の色を保ちつつ、シャープな音像とすることもできそうだ。

ただ、ある程度解像度が落ちても、長めの残響部分も、音楽的表現には必要に思う。どの程度までそれを強調するのか、抑制するのかは、趣味の問題というか、自分の耳と相談しながら決める他なさそうだ。

2014/7/21 月曜日

空間の残響ありきでのペダリング

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 23:44:23

いままで、かなりドライな(リバーブを濃くしない)音作りになっていたように思う。それ前提で、演奏データを作ると自ずと深いペダリングになりがち。

しかし、それだけではどうもぱっとしない。豊かな響きにならない。スタッカートが刺々しい。

その問題について、有効な答は長くみつからなかった。

そんななかで最近、思い切ってコンボリューションリバーブをフルにかけてみたところ、思ったほどこもらない。

(ただし、従来のペダリングデータではこもりすぎる。テスト用につくりかけのほとんどペダルをつかっていない状態のもののデモで気づいた)

さらに、スタッカートや、普通の音の豊かさに改めて驚いた。これ、普通に(ホールやアルバムで聴く)ピアノの音だ。

無響室のピアノの音は、(悪くはないにしても)あまり音楽的とはいえない。空間の残響込みで初めて楽器として成立しているのではないか?

気づけばなぁんだというオチなのだが、これが気づかなかった。深いリバーブ、と、音の場としての残響を混同していたわけだが。

さすがに、ホールの残響+モダンピアノのフルペダルは、非常に重い響きになる(もちろん、狙って使えばよいが、無制限につかえばタダの嫌味だ)。いろいろな薄いペダリングが非常に意味をもってくる(はずだ、まだ、そこまで試していない)。極端な話、ほぼノーペダルでもそれなりにバランス良く聞こえる(少なくともスタッカートとレガートのバランスは随分良いし、残響付きのスタッカートは非常に艶めかしい、瑞々しい響きを帯びることもある)。

厳密なリズム合わせをしながら打ち込みをする場合は、深い残響がかかると厳しいが、そういう工程では軽い残響にすればよいだけの話で、最終的な音作りの上では、まず、空間(の響き)をきめて、それにあわせてペダリングを調節していくのがよさそうだ。

2014/7/19 土曜日

ベートーヴェンの4楽章制のピアノソナタ

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 0:53:13

全て4楽章制で書かれている最初の3曲セットは例外的として、4楽章制をとるピアノソナタはそれほど多くない。

その中でもそれぞれの区切り目として(そこまでの、あるいは、その時期の集大成的な)性格のものが多そう。

3曲セットを3楽章制x2、4楽章でまとめた例(作品10、作品31)、初期の集大成的な作品22。過渡期のまとめ的な作品28。

あるいは、(ベトベン史上最長の)作品109。・・・もっとも後期作品になると楽章制すら怪しくなってくるけれど。

4楽章制というのは、どちらかというと交響曲的な、あるいは、実に古典的な枠組み、という意識が作曲者にあったのかどうかはわからない。しかしそういう意図があってもおかしくないような感じ。

3楽章制の場合は、協奏曲的な枠組みのものと、実験的・冒険的なものがあるよう。ソナタアルバムに入っていて、演奏会ではあまりとりあげられなさそうな、作品14の2部作も、非常に面白い3楽章制。緩やかな楽章がない作品14の1。スケルツォがフィナーレになっている作品14の2も、大変に意欲的な試みではないだろうか。

そいえば彼の3大ソナタとして取り上げられるもの、月光、悲愴、熱情・・・あたりは、みな3楽章制だね。4楽章だと長すぎってことかしら?月光は例外的だけれど、急・緩・急(月光は序・急・破ってかんじか)ってのはわかりやすいのかなあ・・・

ベートーヴェンと前後の世代の作曲家のつながり具合

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 0:36:05

中期〜後期作品を聴くと、ベートーヴェンが音楽史上どういう立ち位置にいるのか、わかりにくいように思う。孤高の存在というか、いまひとつ、前の世代からの影響や次の代へのつながりがピンと来ない。あまりにも個性的なのだ。

前期作品を聴くと、なるほど、こりゃ古典派の直系であるなあと理解しやすい。(ベートーヴェンの初期とその後のギャップはあるんだけれど)。

そして、また、シューベルトとのつながりも、実は前期作品あたりを橋渡しにして考えると非常にすんなりと理解できそうだ。

ベートーヴェンがロマン派の始まりというのも、前期作品あたりから十分に感じられる。前世代、同時代と並べてみると、初期作品でのベートーヴェンの冒険は、既に前期ロマン派の趣があるようだ。

などと、ふと思った。

2014/7/17 木曜日

ベートーヴェン32のソナタ、のグループ化

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 23:33:51

分類することに意味があるのかと思いつつ。単純に初期、中期、後期という分け方ではあまりにもあんまりな感じ。

自分なりに分類してみると

19−20番、1−3番

4番

5−8番

9−10番

11番

12−15番

16−18番

21−23番

24、25番

26,27番

28−32番

って感じか。随分細かいともいえるけれど。

11番あたりまでが初期にあたるか。

12−15番は、これで4曲セットにしてもよい位、様式的なまとまりを感じる。古典派から離れている感じでもある。

16−18番も新しい試み3部作という風。

21−23番はバリバリの中期、傑作集。(22番はおそらく32曲中もっとも不遇な感じではある)。

24−27番は中期の後半あたり?何れも円熟の技。

28番以降は後期作品。達人の域、幽玄の境。

ベートヴェン、32のピアノソナタ

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 23:23:45

番号無しのものを数えるともう少し増えるけれど、ベートーヴェンの遺した32のピアノソナタ。

以前は(傲岸にも)初期ソナタはどうなのか、と思っていたのですが、最近、思いを改めました。

初期作品も、実は非常に素晴らしいのではなかったか?要らぬ先入観で、己が過小評価、というか、食わず嫌いしていたのではないか?

作曲技法的には、明らかに中期以降の方が充実していることは否定しませんが、だからといって初期ソナタが駄目なのか?そんなことはないでしょう。
じゃあ、音楽は何でもより新しい時代のものの方がよいのか?といえば、それはそれでナンセンスではないかと。

同じ尺度で評価することは無理、結局非常に主観的ながら、好きになれるかならないのか、そういう結論になるものの、初期作品も実に面白い。

音の響き的には、中期以降はまさにベトベン節炸裂で、まあ、ベートーヴェンが典型的な古典派(?)というなら、中期以降の作品こそがクラシカル、ということになるのでしょうが、実際のところ、初期作品こそ、「古典派」(ハイドン、モーツァルトの)のように思えます。とはいうものの、ベートーヴェンの場合、若いうちから、かなり古典派の枠をぶち壊してくれちゃったりしていますが(そこもまた面白さのうち)。

2番や4番、11番のフィナーレ(の出だし)あたりなんて、非常に真っ当な古典派の音楽感満載で、面白い。これにいろんなエピソードがからんでくるととたんに風向きが変わって雰囲気も怪しくなってくるのですが・・・

あるいは、自由奔放という意味なら3番のスケルツォ。出だしは小洒落た感じなのですが、途中から激しい転調の嵐。トリオを除いて考えるとして、長調の楽章なのに、半分以上、短調の雰囲気が支配している感じだし。おまけに強烈なシンコペーションは繰り返すわ、どこかで聴いたようなメロディの原型的なフレーズは連発するわ・・・凄まじい。

まだまだ再発見の途中なので・・・何かあったら追々書き足していくかも。

2013/1/6 日曜日

あけましておめでとうございます(改めて)

Filed under: 更新履歴 — かきざわ ひろお @ 20:34:40

アルカンの「協奏曲第一楽章」を公開しました。

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