2013/1/1 火曜日

あけましておめでとうございます

Filed under: 更新履歴 — かきざわ ひろお @ 18:11:36

あけましておめでとうございます。
恒例の新春作品ですが、製作が遅れていたため、しばらくおまちください。
郵送より先にオンライン公開というのは一寸・・・避けたい感じです。
・・・とまあ、それほど大したものでもないのですが、一応。

2012/9/29 土曜日

ショスタコーヴィチの原著作権健在

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 23:09:50

機会があればショスタコーヴィチも公開したいのですが、著作権問題が。
完全フリー(無料)が担保できれば、使用料は発生しなさそうですが、それをどう保証するのか。

公開自体は問題ないことはなさそうなものの、不特定多数向けに公開して本当に大丈夫か・・・
悩ましいところ。

仕込み期間中には・・

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 23:07:12

多分、いままでここで取り上げていない作曲家の作品を、少々仕込み中。
ようやく、少し解ってきた感じ、なので、意を決してやってみようと。
決して、メカニカルに難しいタイプの方ではありません(だから易しいかというと、そういうわけでもない)。

さて、もう、誰かおわかりですね?!

ある意味、転調の魔術師で、しかも、相当デモーニッシュな、そう、あの方です。

プロコフィエフの不協和感(続き)

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 23:04:16

(続き)というほどたいした内容ではないのですが。
和音自体の響きが「不協和」な作品はもっと沢山あるのに、なぜプロコフィエフの作品は(時として)不協和感が耳につくのか、少し考えてみました。
実際、プロコフィエフの作品は、非常に調性感覚がはっきりしていて、かなり古典的な調性の雰囲気が色濃く残っているところに、代理和音だの、一見、遠い調の和音だの、半音ズレだのが挟まっていることで、ある意味、耳障りな不協和感が目立つのではないかなと。

それに対して、例えばショスタコーヴィチだと、そもそも調性感覚が曖昧。たとえば、24の前奏曲。24の調で書いている以上、調性を無視していないわけではないものの、オリジナルの調の感覚は出だしと終結和音くらいで、曲のほとんどの部分は、あちこちの調を彷徨う感覚(の作品が多い)。
プロコフィエフの場合は、そうではなく、ソナタ第6番ならイ長調、第8番なら変ロ長調の枠組み自体は確固としていて、そのなかに色々な和音が混じり込む(あるいは、伝統的な協和音程は無視した対位法の拡大解釈により、鋭い音程でぶつかる不協和音が挟まる)そこで不協和感が生じる(しかし調性感覚は残る)という感じ。

この不協和感、最初はあまりありがたくなかったものの、耳が慣れてくるとなかなか面白い。

ショスタコーヴィチもとても良いのだけれど、非常に痛ましい響きが基調にあって、素晴らしいのだが、辛い。

プロコフィエフは、むしろ古典的で、明解で、そういった面での解放感はありますね(当時の体制下でこういう姿勢を示せたことは、今思うとすごいことかと)。

どちらが良いというものではありません。それぞれ、素晴らしい。

お知らせ

Filed under: お知らせ,更新履歴 — かきざわ ひろお @ 22:55:02

更新、2〜3週間お休みします。仕込みちう。

また、間が空いてしまった

Filed under: 更新履歴 — かきざわ ひろお @ 22:52:54

グラナドスのわら人形を公開します。

2012/9/12 水曜日

極めて不協和なプロコフィエフの和声感覚

Filed under: お知らせ — かきざわ ひろお @ 7:59:59

なんでだろう、19世紀後半〜20世紀半ばまでは、さまざまな「不協和音」を多用する音楽が書かれているのだけれど、プロコフィエフのそれは、非常に耳障りというか、固い響きを持つように感じられます。

ドビュッシーの不協和音は、それは不協和ではないだろう、といっても良い程、非常に自然に響くものが大半(恐らく意図的に鋭い響きを求めて書かれたであろう箇所は鋭い響き)・・不快、ではありません。

スクリャービンの不協和音は、多少聞き慣れたせいもあるかもしれませんが、概ね、耳に痛い感じではありません。無機質の響きというよりは、有機体の響き(を求めていたのかなあ)という感じ。

プロコフィエフの場合、ともかく、非常に鋭い響き、いかにも不協和、という和音が多い。なぜなんだろう?
でありながら、調性がぼやけるのかというと、そうでもなく、結構、伝統的な調性感覚の枠内に収まっているし、無調や、別の旋法というイメージでなく、調性音楽のなかでの強烈な不協和、といったイメージ。ぶっちゃけ、協和音でも音楽成立していそうなところ、なんだか無理矢理、不協和音に置き換えていない?という感じで、非常に耳障り。不協和音を使う必然性があったのか?不協和音を使いたいが為の不協和音?と疑ってしまう程。もっとも試しにそこを普通の協和音程に変えてみたらどうなるか、それはそれで、おもしろみが減ってしまうのかもしれません。

ともかく、読譜からかなり苦痛を伴う感じ。意味分からん。

・・・最近になって、慣れかもしれないのですが、ようやく、何となく違和感は減ってはきたものの。

おもしろみは感じられるようになってきたけれど、やっぱり無理矢理感が拭えない。

作曲技法的には、結構、割り切れていて、和声の色彩感から導き出された不協和音ではなくて、(強引に、協和音程縛りを無視した)対位法の推進力でごりごり出てくる不協和音、それもわざわざ、減8度だの短2度だの増4度(減5度)だの。で、真ん中の方が抜けているので、より生々しく不協和、なのかなと。なんでそこで対旋律をミョーな音程でぶつけてくるんだい?って感じもしますが、一応、裏付けはある。これはこれで異才なんだろうなあ。

和声法とは別の話になるけれど、プロコフィエフのピアノ作品は、ともかく超絶技巧が必要です。

鍵盤を非常に広く使う。5、6オクターブにわたっていくつかの旋律線を重ね合わせてくることもざら。これを両手で弾くってところ、とても、困る。時間差移動攻撃を強いられるわけ。この状態で、それぞれのメロディを歌わせるということは、とても難しい。

政治的に批判された作品

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 7:40:34

ソ連時代には、かなり党が音楽作品にも介入し、あからさまに批判することも多々あったと聞きます。

それは、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフといった人達へも向けられていたと。

プチブル的だの反革命的だのという大義名分を振りかざしての非難だったのでしょう。

さて、プロコフィエフの場合、ピアノソナタ第7番、このフィナーレが問題にされた模様。

ところで、今聞いて思うのですが、では、第6番や第8番は無事だったのかどうか。

今の(私の)耳に聞こえる限りでいえば、第7ソナタのフィナーレよりも、よほど第6ソナタの1、2、3楽章、第7ソナタの1、2楽章などは特に、プチブル的というか、西欧資本主義音楽的な印象があります。いったい全体どういう基準で、彼らはプチブル的非難を行ってきたのか、その基準がさっぱり分かりません。

どだい、音楽をプチブル的とか、資本主義的とか、日和見とか、そういう尺度で評価できてしまうその理屈がまったくもって分からない。

ショスタコーヴィチは、弾圧を恐れ、相当に鬱積した生活を送った(ショスタコーヴィチの証言をどう評価するかにもよりますが)、というのは、とてももっともらしく思います。プロコフィエフはどうだったんだろう。

ともかく、粛正されなくてよかったです、としか言いようがないのですが・・・

どの陣営であれ、芸術への、言論への、政治介入はあってはならない。

いまの日本が無事かというと・・あまり大丈夫にも見えず心配なところです。

2012/9/10 月曜日

残暑見舞いその2

Filed under: 更新履歴 — かきざわ ひろお @ 0:24:46

グラナドスの灯火のファンダンゴ

2012/9/2 日曜日

大変遅まきながら残暑お見舞い(その1)

Filed under: 更新履歴 — かきざわ ひろお @ 18:33:25

グラナドスのゴイェスカスより「愛の言葉

« 前ページへ次ページへ »

Official BLOG of Percorso musicale