ショスタコーヴィチの原著作権健在
機会があればショスタコーヴィチも公開したいのですが、著作権問題が。
完全フリー(無料)が担保できれば、使用料は発生しなさそうですが、それをどう保証するのか。
公開自体は問題ないことはなさそうなものの、不特定多数向けに公開して本当に大丈夫か・・・
悩ましいところ。
機会があればショスタコーヴィチも公開したいのですが、著作権問題が。
完全フリー(無料)が担保できれば、使用料は発生しなさそうですが、それをどう保証するのか。
公開自体は問題ないことはなさそうなものの、不特定多数向けに公開して本当に大丈夫か・・・
悩ましいところ。
多分、いままでここで取り上げていない作曲家の作品を、少々仕込み中。
ようやく、少し解ってきた感じ、なので、意を決してやってみようと。
決して、メカニカルに難しいタイプの方ではありません(だから易しいかというと、そういうわけでもない)。
さて、もう、誰かおわかりですね?!
ある意味、転調の魔術師で、しかも、相当デモーニッシュな、そう、あの方です。
(続き)というほどたいした内容ではないのですが。
和音自体の響きが「不協和」な作品はもっと沢山あるのに、なぜプロコフィエフの作品は(時として)不協和感が耳につくのか、少し考えてみました。
実際、プロコフィエフの作品は、非常に調性感覚がはっきりしていて、かなり古典的な調性の雰囲気が色濃く残っているところに、代理和音だの、一見、遠い調の和音だの、半音ズレだのが挟まっていることで、ある意味、耳障りな不協和感が目立つのではないかなと。
それに対して、例えばショスタコーヴィチだと、そもそも調性感覚が曖昧。たとえば、24の前奏曲。24の調で書いている以上、調性を無視していないわけではないものの、オリジナルの調の感覚は出だしと終結和音くらいで、曲のほとんどの部分は、あちこちの調を彷徨う感覚(の作品が多い)。
プロコフィエフの場合は、そうではなく、ソナタ第6番ならイ長調、第8番なら変ロ長調の枠組み自体は確固としていて、そのなかに色々な和音が混じり込む(あるいは、伝統的な協和音程は無視した対位法の拡大解釈により、鋭い音程でぶつかる不協和音が挟まる)そこで不協和感が生じる(しかし調性感覚は残る)という感じ。
この不協和感、最初はあまりありがたくなかったものの、耳が慣れてくるとなかなか面白い。
ショスタコーヴィチもとても良いのだけれど、非常に痛ましい響きが基調にあって、素晴らしいのだが、辛い。
プロコフィエフは、むしろ古典的で、明解で、そういった面での解放感はありますね(当時の体制下でこういう姿勢を示せたことは、今思うとすごいことかと)。
どちらが良いというものではありません。それぞれ、素晴らしい。
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