2012/9/12 水曜日

極めて不協和なプロコフィエフの和声感覚

Filed under: お知らせ — かきざわ ひろお @ 7:59:59

なんでだろう、19世紀後半〜20世紀半ばまでは、さまざまな「不協和音」を多用する音楽が書かれているのだけれど、プロコフィエフのそれは、非常に耳障りというか、固い響きを持つように感じられます。

ドビュッシーの不協和音は、それは不協和ではないだろう、といっても良い程、非常に自然に響くものが大半(恐らく意図的に鋭い響きを求めて書かれたであろう箇所は鋭い響き)・・不快、ではありません。

スクリャービンの不協和音は、多少聞き慣れたせいもあるかもしれませんが、概ね、耳に痛い感じではありません。無機質の響きというよりは、有機体の響き(を求めていたのかなあ)という感じ。

プロコフィエフの場合、ともかく、非常に鋭い響き、いかにも不協和、という和音が多い。なぜなんだろう?
でありながら、調性がぼやけるのかというと、そうでもなく、結構、伝統的な調性感覚の枠内に収まっているし、無調や、別の旋法というイメージでなく、調性音楽のなかでの強烈な不協和、といったイメージ。ぶっちゃけ、協和音でも音楽成立していそうなところ、なんだか無理矢理、不協和音に置き換えていない?という感じで、非常に耳障り。不協和音を使う必然性があったのか?不協和音を使いたいが為の不協和音?と疑ってしまう程。もっとも試しにそこを普通の協和音程に変えてみたらどうなるか、それはそれで、おもしろみが減ってしまうのかもしれません。

ともかく、読譜からかなり苦痛を伴う感じ。意味分からん。

・・・最近になって、慣れかもしれないのですが、ようやく、何となく違和感は減ってはきたものの。

おもしろみは感じられるようになってきたけれど、やっぱり無理矢理感が拭えない。

作曲技法的には、結構、割り切れていて、和声の色彩感から導き出された不協和音ではなくて、(強引に、協和音程縛りを無視した)対位法の推進力でごりごり出てくる不協和音、それもわざわざ、減8度だの短2度だの増4度(減5度)だの。で、真ん中の方が抜けているので、より生々しく不協和、なのかなと。なんでそこで対旋律をミョーな音程でぶつけてくるんだい?って感じもしますが、一応、裏付けはある。これはこれで異才なんだろうなあ。

和声法とは別の話になるけれど、プロコフィエフのピアノ作品は、ともかく超絶技巧が必要です。

鍵盤を非常に広く使う。5、6オクターブにわたっていくつかの旋律線を重ね合わせてくることもざら。これを両手で弾くってところ、とても、困る。時間差移動攻撃を強いられるわけ。この状態で、それぞれのメロディを歌わせるということは、とても難しい。

政治的に批判された作品

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 7:40:34

ソ連時代には、かなり党が音楽作品にも介入し、あからさまに批判することも多々あったと聞きます。

それは、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフといった人達へも向けられていたと。

プチブル的だの反革命的だのという大義名分を振りかざしての非難だったのでしょう。

さて、プロコフィエフの場合、ピアノソナタ第7番、このフィナーレが問題にされた模様。

ところで、今聞いて思うのですが、では、第6番や第8番は無事だったのかどうか。

今の(私の)耳に聞こえる限りでいえば、第7ソナタのフィナーレよりも、よほど第6ソナタの1、2、3楽章、第7ソナタの1、2楽章などは特に、プチブル的というか、西欧資本主義音楽的な印象があります。いったい全体どういう基準で、彼らはプチブル的非難を行ってきたのか、その基準がさっぱり分かりません。

どだい、音楽をプチブル的とか、資本主義的とか、日和見とか、そういう尺度で評価できてしまうその理屈がまったくもって分からない。

ショスタコーヴィチは、弾圧を恐れ、相当に鬱積した生活を送った(ショスタコーヴィチの証言をどう評価するかにもよりますが)、というのは、とてももっともらしく思います。プロコフィエフはどうだったんだろう。

ともかく、粛正されなくてよかったです、としか言いようがないのですが・・・

どの陣営であれ、芸術への、言論への、政治介入はあってはならない。

いまの日本が無事かというと・・あまり大丈夫にも見えず心配なところです。

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