2012/9/29 土曜日

プロコフィエフの不協和感(続き)

Filed under: メモ帳 — かきざわ ひろお @ 23:04:16

(続き)というほどたいした内容ではないのですが。
和音自体の響きが「不協和」な作品はもっと沢山あるのに、なぜプロコフィエフの作品は(時として)不協和感が耳につくのか、少し考えてみました。
実際、プロコフィエフの作品は、非常に調性感覚がはっきりしていて、かなり古典的な調性の雰囲気が色濃く残っているところに、代理和音だの、一見、遠い調の和音だの、半音ズレだのが挟まっていることで、ある意味、耳障りな不協和感が目立つのではないかなと。

それに対して、例えばショスタコーヴィチだと、そもそも調性感覚が曖昧。たとえば、24の前奏曲。24の調で書いている以上、調性を無視していないわけではないものの、オリジナルの調の感覚は出だしと終結和音くらいで、曲のほとんどの部分は、あちこちの調を彷徨う感覚(の作品が多い)。
プロコフィエフの場合は、そうではなく、ソナタ第6番ならイ長調、第8番なら変ロ長調の枠組み自体は確固としていて、そのなかに色々な和音が混じり込む(あるいは、伝統的な協和音程は無視した対位法の拡大解釈により、鋭い音程でぶつかる不協和音が挟まる)そこで不協和感が生じる(しかし調性感覚は残る)という感じ。

この不協和感、最初はあまりありがたくなかったものの、耳が慣れてくるとなかなか面白い。

ショスタコーヴィチもとても良いのだけれど、非常に痛ましい響きが基調にあって、素晴らしいのだが、辛い。

プロコフィエフは、むしろ古典的で、明解で、そういった面での解放感はありますね(当時の体制下でこういう姿勢を示せたことは、今思うとすごいことかと)。

どちらが良いというものではありません。それぞれ、素晴らしい。

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