政治的に批判された作品
ソ連時代には、かなり党が音楽作品にも介入し、あからさまに批判することも多々あったと聞きます。
それは、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフといった人達へも向けられていたと。
プチブル的だの反革命的だのという大義名分を振りかざしての非難だったのでしょう。
さて、プロコフィエフの場合、ピアノソナタ第7番、このフィナーレが問題にされた模様。
ところで、今聞いて思うのですが、では、第6番や第8番は無事だったのかどうか。
今の(私の)耳に聞こえる限りでいえば、第7ソナタのフィナーレよりも、よほど第6ソナタの1、2、3楽章、第7ソナタの1、2楽章などは特に、プチブル的というか、西欧資本主義音楽的な印象があります。いったい全体どういう基準で、彼らはプチブル的非難を行ってきたのか、その基準がさっぱり分かりません。
どだい、音楽をプチブル的とか、資本主義的とか、日和見とか、そういう尺度で評価できてしまうその理屈がまったくもって分からない。
ショスタコーヴィチは、弾圧を恐れ、相当に鬱積した生活を送った(ショスタコーヴィチの証言をどう評価するかにもよりますが)、というのは、とてももっともらしく思います。プロコフィエフはどうだったんだろう。
ともかく、粛正されなくてよかったです、としか言いようがないのですが・・・
どの陣営であれ、芸術への、言論への、政治介入はあってはならない。
いまの日本が無事かというと・・あまり大丈夫にも見えず心配なところです。
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